すぐにこの問題に帰ってしまうんで、前向きかつ建設的ではないなあと思うんだけど、家計簿が本当に我が家の家計を照らしているのか、というのには疑問を持ってしまう。自分で立てても予算を守れているとはいえないし、いくらここまでは使える、という目安だ、と言われてもやっぱり予算に縛られているという感じがするし。これだけかかったという記録としてなら役立つかも知れないが、これからどう暮らしたいかを考える時にお金の限界を感じながら暮らさなければならないというのはやっぱり苦痛なんではないだろうか。
こんなこと言ってたら怒られてしまうな。
だけどやっぱり一つのことには両面あるんであって、一つの見方をしたらもう一つ反対の見方のことも考えないといけないと思うのだが。
つけたら、どういう風に使っているわかる。そうすると、使い方がいいかどうかを考えることになる。予算を立てるのはこの使い方なら自分は満足できる、ということを納得することなんであるが、その時少なく使うように、少なく使うように、という圧力がかかってくるのはどうしようもない。だけど私は、ただ単に少なく使う、ということが良いのではなくて、使い方に考え方が反映されてくるんだと思う。例えばこどもの教育なんかとても大切なことであることは疑いようもないが、同じように自分自身の教養を高めていくことは大切なんである。そうするとどうしてもお金がかかる。そこのところをむやみやたらに削ったりすることはできないわけ。
自分の場合だったら、本代なんかがそうで、図書館を利用すればよい、とよく言われるけど図書館にだってそんなに自分の読みたい分野の本がないからいつでも自由に取れる自分の本棚にいれたいと思うんじゃあないか。それは教養というものに対する考え方であって、このくらいであるべき、なんていわれる筋合いのもんではないのだ。
だから、レコーディングダイエットと同じで、それをみて自分自身でこの使い方でよかったのか、と反省し使い方を変えていくんだったら納得できるんだけれども、このくらいが標準、とかって言われてそれにすべき、とかって言うのではないと思う。
役に立つとしたら、この面。
お金を貯めるとかというのが目的ならそんなに必死にならなくても、最初に天引きでもして貯金するようなシステムさえ作っておけば、使えるお金を使って何とかなるのだ。