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疑問の勉強

興味と関心を持ったこと、どんなことでも調べてみる、または書いておくための自分用のブログ

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ワクチン焦らない

コロナのワクチン接種が始まってきた。高齢者からのワクチン接種。最初の日は予約殺到で電話が繋がらなかったらしいが、その後数日経ったら電話はすぐつながって予約できたとか言ってる人もいた。自分も高齢者の仲間入りしたのでワクチン予約開始のお知らせ届いた。だけどちょっと不安。すごく焦ってワクチン打とうという気になれないんだ。だって、高校生ぐらいまでしょっちゅう蕁麻疹ができてたから何かのアレルギーなのかもしれないんだもん。病院の中にはそういう人は遠慮してください、って注意書いてあるところもある。注意深い生活でなんとか頑張って、みんなに打ってもらって様子を見ようと思っているんだがどうなんでしょうね。
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無題

毎日毎日何をしたのやらどんな時間の使い方をしたのやらろくに意識もないまま過ごしていたのでは生きている意味もない。やっぱり何であれ、好きなこと、やりたいことをやって満足して死ななくては。
新聞に出てた読者のつぶやきに驚愕した。93歳の人が何かの手術を受けて、これからは好きなことをする、と書いていたのだった。今までいろいろなことを我慢してやりたいこともできなかったのかなあ。
年齢が何歳であったとしても、好きなことや本当にやりたいと思うことをして生きていくのがいいんじゃないのかな。でも、日常の中の様々なことにかまけてしまって、なかなか思うようにことを進めることができないのがよくある姿なのか。なんにせよ、良いと思ったことや好きなことややりたいことには取り組んでみることが必要なのだ。それをやるのは「今」しかない。いつもいつも今の連続だから。だから、いつかはこれをしてみたい、というのをやめて今そのためにできる第一歩を踏み出すことが必要なんだ。

コットンたわし

プラスチックフリーって今まであんまり関心を持ってなかったのだけど、ふと食器洗いのスポンジを変えてみようかと思った。アクリルたわしもよく落ちるので気に入っていたのだが、もしかしてこれでなくてもいいのかも…と。
貰い物で使っていなかった変わり織(?)の綿の布巾で洗っても別に問題ないみたい。そうか、これでいいのか、という感じだった。
更に、タコ糸で編んだコットンたわしというのを雑誌で見て、編んでみたら結構可愛い!
まだ作ったばかりで使ってないけど、ちょっとマイクロプラスチックのことを考えたかなぁという感じがする。タコ糸一巻き30メートルで一個、余ったので花を編んで栞も作ってみた。




しゃべって入力

スマホから投稿するのはあまりやったことがない。しかし、入力などは本当に簡単になった。だって、喋って入力することが難しくなくなったんだもんね。これは絶対に早いと思う。
この頃、政治のことにあまり驚かなくなってしまっている。しかし、慣れてしまってはいけないと思う。ニュースに、明らかにおかしいと思うのがあります。それに、トピックにすること自体を避けている話題がある。あれは一体どうなったのだろうと思っても全然報道がない。報道されている事は個人的な問題に帰着されるようなものが多い。やっぱり1番大きな問題に対してはなかなかみんなが手をつけないんだということがわかる。でも何とかしてほしいと心から願っているのだけれども。

ひさしぶりだ

あー、本当に久しぶり。
最近はSNSを使う人の方が多いのかと思ったら、スマホを持たないでパソコンでのみネットなんかを見ている人も結構いるらしい。というか、自分の周りにはそういう人もいます。そういう人には、ブログを更新していくというのは結構大事なことだと思われている。

自分は今まであんまり思わなかったけど、ブログは皆さん収益を得るのに使っているようである。ブログって一体どういう意味を持つものなんだろうね。収益を得るということは、何か品物を宣伝して、売り上げを出すということなんでしょう。
やっぱりお金になることをするのが良いもんね。
そしてなおかつ、他の人の役に立てば良いわけなのである。

人の役にも立ち、自分の役にも立つということが大事なんだね。

日記がわり

今日の朝日新聞には森友事件のことが結構大きく出てたんだけど、この事件大体のことはわかっているのに、曖昧に終わらされてしまっていて全く納得いかない。
この事件に限らず、あらゆることで大きな不正は罰せられないということばかり。こんなのでいいわけないじゃないか、いつでもそう思っているのだ。

感情的になるなと言われても

身の回りのことで色々嫌なこととか心配事があると、やっぱりそれが気になって他のことにはあまり気が回らなくなる。どうやら自分は時々異常に感情的になってしまうようなのだが、自分自身それを意識できていない時もある。ちょっと語気を強めて発言したら感情的と言われるのって何だかなあ…。わかってもらいたいと思って言ったのがそんなに強い反応を引き起こすとは、あ〜あ、っていう感じである。
感情というのは厄介なもんだ。自分自身が気づいた時にはもうそうなってしまっているのであって、その感情を起こさないようにしようというのは無理な話だ。必要なのはその感情をむやみやたらに表に出さないということなのだろうか。それもなかなか難しい。できるだけ、表に出さないように隠すということ以外に対処の仕方がないものなのかなあ。
そんなに思ってないと思うのに表現の仕方とか、そういうもので判断されるということが多々あるが、一度出してしまったものを元に戻せない。後悔先に立たず、ということになるのである。まあ、気を取り直し、前のことは忘れて平穏な気持ちを取り戻して平気な顔をしてやっていくしかないのか。

自分の問題として捉えよ そうすればすぐわかる

どうでもいいや、と思ってはいけない。こんな時代が長く続くもんか。日本には戦争に突入していき、負けてもう戦争はいいや、と皆が思った歴史があるんだ。いくら何でも2代や3代でそんな過去を忘れることなんかできるわけがないではないか。今の時代を牛耳っている人々にとっては自虐的と映っているのかもしれないが、実際に兵隊になって戦ったのは国民であり、多くの人がその過去を知っているはずなのだ。自分の身内にどんなことが起きたか知るだけでいいんだ。騙されるなよ、皆。どうせいつでも口だけで綺麗な言葉を並べているのだから、実がこもっていないということはすぐさまわかる。

蓄電池

北海道のblack outはとても衝撃的だった。もしかしたら電気が来なくなることがあるかもしれないとかすかに思ってはいたが、いざとなった時十分対応できるだけの準備ができていたかと言えば、そうではない。一応我が家には太陽光発電のソーラーパネルが屋根の上に乗っている。今回の地震、最初の日は天気が良くて十分に発電していた。今までで初めてだったから停電後に自立運転をさせるのも初めてだったが、それは簡単にできた。そうなっても1500ワットのコンセントを一つ使えるだけだったが、スマホの充電とかだから十分だった。Wi-Fiが切れている事に気付いてそっちの方もつなぎ、ネット環境を整えることができたのは良かった。しかし、長いコードをもってないから近くに持っていける小型の物は良いとして、冷蔵庫や洗濯機は無理だろうと思った。
 太陽光発電をやっている人にも蓄電池をつけている人とつけていない人がいると思うが、蓄電池を持っている人は今回全く何も問題なく普段と同じように過ごせたと言っていた。もし、みんながそういう風にしていれば地震でひどい被害にあっていないところなら、みんな問題なく過ごせたということになるだろう。我が家にソーラーパネルを乗せようと思った時、建設会社の人は屋根が傷みやすいとか言ってすごく渋っていたのだが、載せておいたのはよかった。しかし、その時はまだ蓄電池はあまり進んでいなかったのだ。この数年の間にかなり技術は進歩したのではないだろうか。うちの場合はソーラーの発電量が少ないけれども、それでも蓄電して自分の家で作った電気を使いたい。電気自動車を蓄電池として活用するというのももうすでに行われている。そういうのを上手に使えば家庭で使うエネルギーはほぼ賄えるというのが本当のところなんではないのか。
 電力会社が発電所を大きく大きくしていき、原発を今も進めようとしているのは一般家庭からすればベクトルの違った方向への導きだ。原発の危険性をやっぱり正直に認めることが大切なんだと思うけど。大きな発電所に何かあったら全てが止まってしまうというのは、やっぱりよくない方法のように思える。

まともな理屈はもうなくなっている

何でも諦めてはいけないとよく言われていると思うが、もう最近はかなり諦めの境地。なので、好きな音楽を聞いたり、庭の手入れに精を出したりして、嫌なことを思い出さないようにしている。だけど、全く一般の人間にまでこんなに不快な思いをさせてあくまでも自分たちのやりたいことのみを追求していくあいつらって一体何なんだ。要するに、彼らの願望は自分達だけが選ばれた金持ちになることなのだろうか。こんなの本当の人間のすることじゃあないや。彼らはもう人間らしさというものを失っているのである。国を愛しているとも思えぬ。愛国だとか何だとかそういうことばかり言って外国の悪口をさんざん言ってバカにしたような態度をとった挙句に、日本自体も捨てているとしか思えない。国を滅びさせようとしているのか。なぜ、なぜ?そんなに日本が好きだと思うんなら(口ではそう言ってるんだから)少なくとも自国民のためになることを考えるのが本当だろう。何にも考えていない、あるいは金ヅル、そういう風に考えているとしか思えないのである。
こんな事ばかりを書くつもりではないのだった。でも、気になってしまうな。一番上の人が道を間違えたら残り全員不幸になる。何もかもまともな言葉が通じない社会をこれから育つ子供達に見せたくないなあ。どんな変な理屈でも通るようになってしまうだろう。ただ一つの原則、それは単に力が強いということであって、決まりなどは全く関係のない世界になっているんである。実際はあんまり気づいていない人が結構いるようだが、一般人の小さな幸せはどれくらい続くことが可能か。ある時急に変だと思っても、どうしようもないだろうけど、最後の瞬間までまあまあ幸せと思っていられるのならそれでいいのか。

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