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疑問の勉強

興味と関心を持ったこと、どんなことでも調べてみる、または書いておくための自分用のブログ

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つける意味を考えないと

このところ、パソコンの家計簿ではなくノートに記帳している。これが何だか気持ちよくなって、すごく楽になってきた。パソコンが気に入ってたんだけど、一体何なのでしょう。
どっちでも結局同じなんだけど、集計の速さとデータの処理の速さではパソコンが良くて、普段ちょこちょこっとつけるにはかえってパソコンの方が面倒に感じる時もある。自分の手で書くのには確かに何となく意味があるというか、自分自身のやったことをあまり他人ごとのようでなく感じながら日々の生活を考えていくという意味があるのかもしれない。
そもそも何を求めて家計簿をつけているのかということから考えていく必要があるだろう。
家計簿の良い点とは…。もちろん、わが家の家計を客観的に把握すること、工夫することがわかること、何を重点にして暮らしていけばよいのかわかるということなんかがあるのだろう。
みんながそれだけ活用しているかどうか、そこのところはわからない。せっかくつけた物を実際の生活の中に活かしていけなければほとんど意味がなく、無駄なことをやって手間隙かけているだけ、ということになる。そうならないための工夫と言うか、何と言うか、そういうものが必要なのである。

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キティちゃん

かわいい写真も時には載せないとね。キティちゃんが毎日の日付を教えてくれます。



無題

来週の予定を見たら月曜から金曜日まで全部ぎっしり詰まっている。これでは本当に働いているのと違いがない。それにセールに出す品物を何か作らなければならないのだが、作れるかなあ。ちょっと心配になる。あ~あ、どうしよう。働いている人だったら、これだけの時間を費やせばそれなりの報酬が得られるはずであるが、そんなことは全くない。自分の与えたものにはそれ相応の見返りがある、ということがよく言われて、その為に自己の犠牲などはものともせず、人に対する愛を与えるべきものなのだそうだが、それにしても、見返りと言うものはそう簡単に得られるものではないのである。見返りを求めるべきではない、見返りを期待して何かをやるのではない、そういうことがよく言われています。

まあ、何事もそれほどしっかりできるわけではなく、プロなんかのレベルには到底達しないのだから、見返りというものが得られないのはそれはそれでいいのかもしれない。プロとしてのレベルと素人のレベルの差はやはり大きい。そこまでいっていない者は自分の出来る限りのことをして人に尽くすということを第一にすべきなのかもしれない。

レシピファイルの写真

写真はこれ



料理レシピの整理

料理のレシピの整理、なかなか進まない。種類別に大きいファイルに入れるという風にしようとしているのだが、本当に手間がかかる。こういう風にすることに本当に意味があるのかどうか。料理が実際にうまいのかどうかとあまり関係なく、レシピ集めに走っているのかなあ。本もたくさん持っているのであり、実際に作ってみて自分なりの物を加えていく方が大事なようだ。

突然の主婦コーナー?

予定表の中で今日と明日は二日間何も予定がなく「何かができる日」である。だからと言うわけでもないのだが、台所の一角に自分のコーナーを作りたいという先日から考えてきたことが実行できそう。今までのように今のテーブルでやっていると、パソコンをやっていた途中でテーブルを片付けてご飯の用意をしたりしなければならず、やっぱり不便だなあと感じてきた。近くに本やノートを置くこともできないし、いちいち動かして他のところへ置き換えなければならないから、非常に不便なのである。台所の片隅に本も置けて道具も置けて、パソコンも置けるといいのにというのはこの前からずっと感じてきたことなのだが、台所を片付けて小さい冷凍庫を物いれとして使うことにすれば、何とか置けそうな気がしてきた。そうすれば自分の物をこのそばに置けて家計簿付けなんかもできる。なかなかいいではないか。ただ…。テレビが見られないか…。完全なながら族になっていることが判明してしまう。でも、料理をしながらでもパソコンに近いというのは魅力である。この場所にいられるのならこっちの方がいいとおもう。本当に他のものを片付けられるかどうかというのが問題なのだが。

結局そのまま

結局髪に対しては何もしていない。要するに、あるがままの姿を皆さんの前にさらしているということである。これでいいのやら悪いのやら、考え方はいろいろに分かれるところだ。まあ、こういうことの一つ一つに対して人間は自分なりの判断を下しているのだ、といえないこともない。細かい少しのことの積み重ねでその人のいき方が決まるんである。
少なくともいえることは、染毛剤は科学的に見て体にあまり良くない成分が含まれているということは言えるのだろう。しかし、いろいろな種類がある。すべてを同列に扱うのはどうかと言うこともあるんだろうなあ、実際的な選択という面から見れば。
この頃は特に女性はほとんど全員染めているとか言われるので、綺麗に若くいたいという女性の願望は非常に強いもんだろうと思う。皆と言うか、多くの人がやっているということもある。実際的には何もせず楽な道を取るということなんだが、それが帰って難しくなっている昨今。何がいいのやら悪いのやら。

いっそのこと染めようかと思ったりして

この髪は本当に自分にとっては嫌なものである。店でお金を払う時に何だか憐れんで「いいよ、ゆっくりで」とかといわれたし、今日は会の人から高校生の娘を持っているのが以外(思ったよりずっと若いらしい)と言われたことがショックで、また染めようかと思ったのだった。世の中は中には髪のことなんか気にしないで(少なくともそういう様子で)自然のままにしている人もいるが、ほとんどの人は自分よりはずっと年上の人たちで、かなり年がいっているのだろうと思われる人たちばかりだ。老人と言われるような年ではないのになあ、この髪のせいだ、と思うと実に嫌な気分になる。髪の色は一番に印象に残るものであり、年齢を判断する基準のようなものにも思われているようだ。口に出さない人たちもきっと私のことを年だと思っているんだろうなあ。最近は肌もかなりしみだらけで、赤黒い顔色のような気がしてそれも気になるのに、これではひどいではないか。
テレビの宣伝は一生懸命染めろ、見かけを若くしろ、と言っており、アンチエイジング、見かけの若さというものがこれほど大事にされている時に何で自分だけこんなに嫌な思いをしてまで染めていないのかということに疑問さえもってしまうのだ。染めないことをおかしなことのように言う人たちもいるし、見かけでしか判断できない人たちは馬鹿だと思いつつ、そういう世の中なんであえて抵抗するのも、という気もするのだ。
抵抗するからには物凄い意思の強さが必要になる。何で染めないかというと、要するに化学物質の与える害が怖いのである。毛染め剤の中に含まれているのは非常に毒性の強い物質であり、ガンになったり血液の病気になる人の割合が多い、そこまでいかなくてもアレルギーの原因になったり痒みをもたらしたり皮膚が変になったり、髪が抜けたり、などとも言われているのだ。そういうことを聞いてどれだけその有害性を実感できるか。その情報が真実なのか、あるいはそれほどの心配は要らないものなのか、そういうことが素人である一般人にははっきりとはつかめない。よくわからないしそれほどのはっきりした因果関係などがわからないのであれば、目前に見える若さ、美しさの方を重視する人の方が多いのは当然である。それでも自分は決心してもう2年ぐらい染めずに我慢してきたのだ。写真を見るのは今でも嫌だ。写真にうつっている自分なんか見たくない。写真をもらってもできるだけ見ないようにして、染めないということを頑張っている。健康に対する影響がそれほどないのであれば、見かけの若さをもちろん求めたいと思っている。何かのきっかけがあれば決意は簡単に揺らぐのだ。どうするかはこれからだが。
ともかく、自分にとって髪の問題は非常に大きい。夫などはそんなことを問題にしていること自体が良くないみたいに考えているというか、ふけて見えるなんていうことはないというのだが、本当かなあといつも思う。問題にすること自体がはばかられる。しかし、本当はいつも気になる。本当の人間としての大事な問題ではないという風に思いながらも、見かけの大事さと言うものを思うからである。何とかしてこれが変えられる問題なんだったら、頑張ってみるんだけど。ストレスが原因だと言ったって、それを自分でどうこうできるという問題ではない。どうしたらいいかは自分自身の判断しだいなんだが、やっぱり見かけというものは気になるものである。

強制は嫌いである

宗教的なことは、よくわからない問題として避けている、あるいはその家の慣習に従う、あるいは敬虔な態度で神への崇敬の念を抱く、など、いろいろな風に対処されている。最もわからないのは神が実在するかどうかということで、どう判断していいものやら、決めかねているわけである。信仰心の厚い人から見れば神の存在を疑うなどと言うのは不遜極まりないことである。しかし、神が常に人間の行動を見守り指導してくれるということにも全く私もそう思います、という風に思うことは私にはできなくて、結局自分自身の行動は自分で責任を持ちます、と言う以外にないのである。そういう態度は信仰心の厚い人から見れば賢こぶっていて高慢な態度なのらしい。

自分の入っている会は宗教団体ではなく、生活を通して人間生活を良くしていくことを目標にしているのであるはずだが、羽仁さんは強制しなかったと言われているにも関わらず、どうしても著作集を読まなくてはならない。そして、それは完全にキリスト教の信仰に基づいたものであると言われているし、実際に読んでもそうである。生活を良くすることと宗教とがそれほど結びついたものなのか?神の国の実現とかというのが実際に出来うるものであるのか、非常に疑問を持つ。もっと一つ一つ具体的な問題になら可能性を見出せるかもしれない。しかし・・・。いつまでもぼんやり考えていてもこの問題は解決できそうにないが、もし神の存在と言うものを照明してくれるものがあればそれはそれで従わざるを得ないのかもしれない。でも…。
宗教は、生き方の指針を与えてはくれる、考え方、この世の中での生き方を教えてくれる。しかし、自分は熱い信仰を持っているという人を知ってはいるが、その人たちが必ずしも信仰を持っていないという人たちに比べて人間的にすばらしいと言えるものでもないと感じる。本当には生き方自体の中に現れてくるはずだろう。でなければ、単に頭の中の理解に過ぎないのだから。
いろいろな面で、強要されることは嫌いである。自分自身で理論とまではいかなくても組み立ててみなければ納得できないのである。こうだからこうせよ、と言われるのを最も恐れていると言うか、嫌と言うか、そんな気持ちだ。納得できないものに対しては無理に思うことはない。
別の意味で、倫理感と言うものは持っているのであり、自分自身の善悪の判断もある。自分の良心と言うものに従え、というのが自分にとっては最も納得の出来る生き方である。




ちびポシェットと携帯ケース

本当は衣類の数をアイテム別に調べて不必要と判断したものは即ごみ箱行き、ということにしようと思っていたのだが、たくさんの衣類を見ているうちにもったいないという気がしてきた。とはいえ、物をつくるのは大変なことなのである。昨日も今日も一日中部屋をごった返して袋やなんかを作ってはみたのだが。
作ったのはポシェットと携帯ケースと鍋帽子の座布団と、文庫本のカバーとポーチ。もう疲れちゃった。ポーチは防水加工してある薄い生地だから旅行なんかの時水分のあるものを入れたりするのにはきっと役に立つだろうと思う。その他は義母が送ってきたアンサンブルを使った。子ども用だったのだろうけど、着ないまま、私には小さくて入らなくてずっと前から処分しようと思ったいたのだった。まあ、作ればそれなりにできるのではあるが、心を込めて作ってるわけでもないから、そんなに良くもない。

こんな風に、何かを作ろうと思えば作れるのだけれど、処分しようと思う物の方が多すぎてちょっとやそっとの再生努力などではどうしようもないのだ。処分というのをもう少し日常生活のサイクルの中に入れなければいけないのだろうし、そもそも買うときにもう少し気をつければ良いものを。それはわかってはいるのだが、実際には…。リサイクルに持って行った時は時すでに遅し、で春物夏物しか受け入れていなかったからことわられてしまったのだ。もう着なくなった衣類というものはどうやって処分したらよいのか。思い切って、その都度その都度、見切りをつけたものをはずしてそれなりの処遇を与え、持ち数を管理するということになるのである。わかっているんだけどねえ、実際は・・・。難しいなあ。



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