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疑問の勉強

興味と関心を持ったこと、どんなことでも調べてみる、または書いておくための自分用のブログ

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エディターは快適だ

エディターは本当に快適に文章を書けますね。ワードなんかを開くと開くのにも時間がかかるけど、エディターはすぐだ。必要なのは飾りでなくて文章そのものなのだから、これで十分なのだ。
それに、エディターからメールも送れる。最初からメールを書こうと思うのと文章を書いたのをメールで送るのとではやっぱり気分的に少し違う。エディターの方がたくさん文章を書く事ができるような気がする。ははは。どういう違いがあるのか良くわからないが、そう思うのだ。
それに、書いたものをパソコンに残してメーラーにも残して、あちこちにバックアップをとる事が出来るのである。やっぱ、エディターって便利なのだ。これでhtmlなんかもかけるようになったらすごいんだけどねえ。
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自己イメージとのギャップ

人はいろいろなことを言うが、やっぱり自分自身のことは自分で考えて良い方法をやってみるということが一番大切だ。
そうはわかっていても、自分自身の持っている自分に対するイメージと人から見た、あるいは写真なんかに撮られたときの自分のイメージとの差はいかんともしがたい。現在の社会においては、見かけというものは非常に大事なものだと考えられている。そんなものに囚われていろいろなことが自分にはできないと思うのは全く馬鹿な考えではあるのだが、しかしその一方でこんな状態では人の前に出るのは恥ずかしいと思ってしまうのである。これが自分をいろいろな事から引っ込み思案にさせ、自分には向いていないと思う原因になってしまっているのだ。いろいろな人からいろいろなことを言われるのも自分に対する評価を下げる原因になる事もあるが、客観的に見た写真なんかが非常に自分自身を落ちこまさせる原因になる。そんなことを考える必要ないんだけどなあ。人にはそういう風にいえるけど、自分自身に対してはなかなか許せないというような気持ちになる。でも鏡だって見ているのに何で写真に撮るとこんなに変に見えるんだろう。

ぐうたら

昨日は家に一人きりになった。特別に急いでやることもなく気楽な感じだったので物凄く物事を時間通りにやるのが苦痛な気がして一日中パソコンでドラマを見てしまった。あまりいろいろな事がパソコンで出来るようになると困りものだ。特に、映像を見るというのはデスクトップも占領されてしまうし、音だけでなく目もそっちに完全にとられてしまうので本当にやるべき事が出来なくなってしまうのである。音を聞きながらなら何とかながらでいろいろな事が出来るが、映像を特にデスクトップに映してしまうともうだめだ。完全に一日を無駄にした。

映像でも読み物でも物語はやっぱり面白いねえ。だからたくさんの人が見るわけなんだけど。でも自分のやるべき事や家事を忘れてしまって没頭するのはやっぱり誉められた事ではない。もう止めよう。

不用品の処分

昨日の夜収納整理の本を見て、その家の持ち物は厳選されているというか、本当に少ないという事を改めて思った。気をつけていなければすぐいらないものが増えてしまうというのにあれほどすっきり暮らせるというのは常に不用品を入れないようにしているからに違いない。やっぱり家の中がすっきりしているのはそこにあるものが少ないせいである。しかしただ少なければいいというものでもなく、やっぱり必要なものは備えていたいし、それに少しは装飾的なものも入れたい…。飾りが映えるのはまわりがすっきりしている時だ。明らかにそれを見せたいというintentionが伝わってくるのだ。
わが家の場合は装飾的なものを考える前にまずすっきりさせる事から始めなければならない。自分自身結構興味を持っている分野はどうしてもそれに関する物を集める事から始まったりするから、そういう関連のものは増えていくのである。今の時点での自分にとって必要で大事なものは昔の自分から見るとやっぱりちょっと違っている。今必要なものを過不足なくそろえるようにして、そうでないものは処分してしまってもほとんど未練はない。

油物は良くないみたい

金曜日は物凄く疲れが出て一日中ぼんやりしてたが、それでもあんまり回復したという感じがせず、昨日は昼食会でお腹いっぱい食べたら調子が悪くなってしまった。食べたものが多かったか中にあった天ぷらや鴨肉なんかが合わなかったのか、もう満腹だと思ったのにそれ以上に食べてしまったのが悪かったのか。脂っこいものはどうやらあんまり良くないのだ。前に温泉旅館に行った時にも同じように食べ過ぎて調子悪くなったが、あの時と同じような感じだった。気をつけないといけないんだなあと思うが皆が結構良く食べるから調子に乗ってしまうんだよね。自分自身のお腹と相談するのがやっぱり一番大切。

カバンの中身

ファイル整理しなくては。
いつも荷物を軽くしている人に聞いたら、やっぱりその日必要なものだけを選んで持ってきているという話だった。それが普通のことだとは思うけど、もしかしたらこれがいるかも、と思うものが結構多くていつも大荷物になってしまう。必要なものだけ持っていくようにしよう。その方が断然軽いもん。

おいしい味付けのコツ

料理ほどバリエーションの多いものもないなあと思う。でも、味付けには法則があるらしい。それを覚えておけば材料の分量が変わっても味をうまくつけられるはず。それがこれからのねらいだ。ただ、どうも記憶力が弱くて覚えられないんである。一番簡単なものでさえ、なかなかなんだから困ってしまうなあ。
それでも、味付けご飯や寿司飯の分量を覚えたのは良かったし、マリネなんかも一度覚えたので使えているので、これらは役に立っている。これを汁物、煮物、和え物、と増やしていけばいいんだ。確かにいろんなレシピを見て作ってみるのはいいことなんだけど、やっぱり基本を知っていてそれを自分でアレンジしながら応用していく方が楽だ。早く味付けの基本を覚えるようにしよう。

環境に対してどんな事が出来るのだろう

一般市民レベルでまじめに環境問題の解決のために取り組もうと思ったら、やっぱりできることは限られている。一番大切なことはどんな方法で作られたエネルギーを使うかという事ではないのか。CO2の削減のためには原発がいいといわれても放射能の事はどうなるんだ、という問題が出てくるわけで、ある問題が解決されてもそれに伴って別の問題が出てくるような解決法では困るわけである。原発なんかで出来たエ電気エネルギーではなく、自然エネルギーを元に作られた電気を使いたいと思う。だけど、ごく普通の一般人がどうやってそういう風にして作られたエネルギーを使う事が出来るのだ。
できることといえば、レジ袋をもらわない、鍋帽子を使う、コンセントを抜く、早く寝る、とかなんだが、自分の場合レジ袋や鍋帽子は好きだけどコンセントを抜くとか早く寝るとかと言うのはできないし、そういう風に何でも我慢の子にならないといけないと言うのも嫌なのである。環境のために良い生活をした方がいい、というのはわかるんだけれども、そういう焼け石に水のようなことでこの問題が解決に向かうのか、というのは本当の疑問である。
それでも何もやらないよりやったほうがよく、エネルギーの問題もどういう風にしてできたエネルギーを使いたい、と声に出していっていかなくてはならない事なんだろうと思う。だけどそういう風にことが運んでいくかどうか。難しいよなあ。

我慢して生活するのではない方法をとりたい

昨夜は早めに寝ようとしたのにちっとも寝られなかった。考えるともなく生活部をどうしたらいいか考えていた。自分の姿とはかけ離れたところで勝負しようといけないのが、困ってしまうところである。もっと地に付いた活動をせよ、と常に言われているんだろうけどなかなかできそうもありません。
早寝早起きなんていうのも環境の為にも自分の健康のためにもよいといわれているけれども、実行するのが難しいのである。でも皆に早寝早起き朝ご飯に取り組みましょう、なんていうのだ。

そして、環境に対する取り組みにしても、いろんな本なんかを読んでみてわかるのはどうやらリサイクルなんかは一生懸命に皆がやっても実際的にはその処理のために余計なエネルギーを必要とし、却って環境そのものの為には悪くなっているらしいということだ。一体、どうすりゃいいのだという感じもするし、何で一生懸命やっている事が無駄になってしまうのだという様な怒りのような気持ちにもなり、小市民たちが一生懸命取り組む事に一体どれほどの価値があるのだろうか問いう気もしてくるんである。
なんか、無駄なむなしい事をしているというような…。
本当にしないといけないのはエネルギーの作り方自体をよりクリーンなものにしてもらう事なんであるが、そういう風にいうことはお願いしつつ今の生活を捨てないということであってそんな考え方は良くないというのが多分多くの人の考え方なんである。自分自身に対して何かを我慢する事を強い、それができるようになることが生活を変えることだと言うのか。
自己犠牲的な考え方をしなければ環境に対する取り組みは出来ないのか、そういうことが問題になってくるんでありますが。
無理なくやって楽しくかつ成果がわかり、環境や健康の為にもなっているというような生活の仕方を一般的な人々がすることは出来ないのだろうか。

信じるものは救われる?

私は宗教的な言葉は好きではない。しかし、所属している団体ではしばしば宗教的な言葉が出てきて、その言葉に惑わされる。その言葉使いに特別何も感じない人もいるかもしれないが、自分はそういう言葉を使うことには非常に反感を感じる。昔に書かれたことから今の時代にも通用する事を読み取るのならば、著者が本当にいいたいことをしっかりと読み取るべきなのだ。もちろん読み取りにはそれぞれの個人差があるが、何を言わんとしているかを様々な枝葉末節にとらわれず読み取るべきなのだ。

いつでも不思議なのは、神ということを言う人たちは本当に信じているのだろうか、ということである。人の生き方にしても世の中に起こるできごとにしても、神の思し召しなんていうことがあるのだろうか。

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